”私は全てのものに対して罪人である”
これはボンヘッファーというドイツ人牧師の言葉です。
ボンヘッファーとはどんな人なのでしょう。別の場ではこんなふうにも述べています。
「善と悪との間で選択をするのは不可能であり、あくまで我々は、悪と悪との間に立って選択をするほかない。」
それが人間の行為である限り、完全な善など存在しない。全ては悪と悪との選択であると。
正義の摘発に飽くなき自粛警察、自分の権利ばかり主張する老害(若者も含まれるけどイメージとしての老害。語彙がなくてすみません。)みたいな人と比較すると、よりボンヘッファーの人物像が明確になると思います。
自粛警察や老害みたいな人は自分の意思に基づく行為こそが唯一解だと信奉しているが、ボンヘッファーは、全ての選択は悪と悪との間において辿られるものだと認識している点で、行為に対する評価が大きく異なりますね。
さらに、これは程度の問題でもなく。
例えば、最大多数の最大幸福的な行為であれば、少なくともそれは悪でなしと捉えられるかも。そう考える人も中にはいるかと思います。
もし全体最適な選択が常に善であるなら、マジョリティーの恩恵のために、少数派の犠牲は容認せざるを得ない、みたいな多数派至上主義に陥ってしまいますね。
だから程度の問題から、たとえ全体最適な選択をしたとしても、それは善ではなく、あくまで悪だという認識を持つことが非常に大切だと思います。
ここからが本題。
全てのものに正しい1つの答えがあるという伝統的な考え方が正しければ、人がすべきことは一義的に決まっており、自由な行為に余地はありませんね。
一元的な価値を確立するため、計算問題みたいに正しい答えにたどり着くことが1番の命題で、それだけが人の行動基準になります。
だけど、私たちが生きている現実はそうではなく、快、幸福、慈愛の形は個々人それぞれで、価値は1つの基準に還元できない多元的なものと考えられてますね。
価値を自由に選択しつつ、またよい価値を求める過程で、時間やお金を好きなように配分することが、私たちには容認されていると思います。
それは前近代に経験したような、価値を強制される世界と比べて、まあよい世界だと思います。
しかし、価値を自由に選択できるからこそ、価値の間には緊張が生じてしまいますね。
自分の価値と他者の価値が同じであるとは限らないから、時には価値(価値を追い求める過程で取られた行動も含む)は対立してしまう…
このときに”私は全てのものに対して罪人である”という言葉がヒントを与えてくれると感じます。
公共の場で暴力行為を目撃した時、あるいは暴力を振るわれた時。(物理的じゃないもの含め)
暴力だと感じた言動に何かしらエクスキューズしたいけど、それは相手の価値の否定になりかねない。
かといって黙って見過ごしてられない。
じゃあどうすればいいのか。
この時に、善と悪の間に立って選択をせずに、悪と悪の間に立って選択をするという考え方が役立つのではないか?と考えているのです。
人間の行為である限り、完全な善など存在しない。私は全てのものに対して罪人なのだ。というスタンスが、価値が対立してしまった際に取る行動の担保になるのではないかな?
価値が対立している状況以外でも、何かしらの選択に迫られた時はいつでもこの考え方は応用できると思います。
この認識は、僕にとても勇気を与えてくれます。
だから、この言葉が好きです。
なんか大きな風呂敷を広げてしまって、うまく回収できた自信がないのだけれど、伝わればいいな…
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