「四苦八苦」という言葉は、厳しい状況や困難に直面している様子を表したいときによく使われる。だけど、もともとの意味は少し異なる。人間が生きる中で避けられない苦しみの種類を示す仏教の教えに由来している。
まず四苦とは、「生老病死」を指す。私たちは、どのような環境や条件で生まれるかを選ぶことができず、年を重ねて老い、病気を経験し、最終的には寿命を迎えて死に至る。さらに、この四苦に加え、以下の四つを合わせたものが八苦。
- 愛別離苦(あいべつりく):愛する人、大切な人との別れの苦しみ
- 怨憎会苦(おんぞうえく):嫌いな人、避けたい人と関わらざるを得ない苦しみ
- 求不得苦(ぐふとっく):求めるものが手に入らない苦しみ
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく):心や体が思うようにいかない苦しみ
これら八つの苦しみは、仏教において人間が生きる上で必然的に向き合わなければならないものとされている。苦しみは、外部要因から生まれる不安な出来事ではなく、生きているという状態の不可分な一部。この苦しみは、存在そのものに伴うものだから、避けられない。
生きるとは、苦しみを抱えながら日々を過ごすこと。それを意識せずに、楽しく日々を過ごすこともできるかもしれないが、一度でもその本質に気づいてしまったら、もう二度とその重荷から逃れることはできない。
老いや病いや死といった現象は、人が生物として生まれてきた以上、どうにも逃れようのない、解決方法のない不幸。「生きることは死に向かう旅にすぎず、人は生まれた瞬間から、日々、死に向かっていくものだ」とセネカも言っています。
では、なぜ自死を選ばないのか。
自殺を選ぶ理由を考えると、それは、これほどの苦しみならいっそ死んだほうがましだと考えるからで、裏を返せば、幸せになりたいという強い執着こそが人を自殺たらしめる。苦しみは、それを取り除きたいという欲求や執着から生まれるものだから、その執着を抱えたまま自殺を達成したところで、苦しみから解放されることにはならない。だから、自死はありえない。
じゃあ、何が楽しくて生きているのだろう。
手に入れることと失うことは、コインの表裏のように切り離せない。何かを手に入れると同時に、それを失う可能性を引き受けなければならない。愛する人と結ばれたその時点で、やがて訪れる別離の苦しみが影を落とし始めるように。
であるならば、最初から何も持たず、誰とも深く関わらずに生きたほうが、苦しみを少しでも和らげられるのではないか。そう思う。
これほど苦しい世界にあって、どうして生命や愛を肯定することができるのだろう。
その答えのヒントは、実は死の中にあるのかもしれない。
ここまでの話は、死が苦しいものであるという前提に立っているけれども、もし死が苦しみではなく、むしろ安らぎであるとしたらどうだろう。もしそうなら、苦しみから解放されるのだろうか。
しかし、それを知ることができるのは、私たちが死を迎えたその瞬間だけ。死を経験しない限り、死の本質を評価することは誰にもできない。じゃあ、生きている間にできることは何だろう。
その境地に至ったとき、人はやっと大人になれるのではないかな。その境地とは、意思を持つ人であれば、誰もが辿り着けるものなのではないかな。そう思うなあ。
やっぱ、死は生の対極ではなく、その一部として存在している。
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