週末に少し休む時間ができても、何か生産的なことをしていないと落ち着かず、年100本以上見てた映画も、毎週末出かけていた登山も、全然みたりやれたりできなくなりました。
こうした症状は、世間でワーカホリックと呼ぶそう。
それは単なる働きすぎとは異なり、仕事そのものに依存する状態を指している。仕事を行うという行為そのものが中毒的な行動となり、身体や精神の健康に悪影響を及ぼしているにもかかわらず、その行動を止められない。依存症とは、物質や行動に過度に依存し、それが自己や周囲に悪影響を及ぼしていても、その依存をやめられない心理的・生理的な状態のことをいい、アルコール依存では飲酒行動、ギャンブル依存ではギャンブル行動が過剰になるのと同じように、ワーカホリックの場合は、これが仕事という形で現れる。仕事が依存的な行動になった場合、個人は仕事をしていない自分に不安や恐怖を感じ、自己評価が仕事の成果に依存するようになる。ワーカホリックはつまり依存症ということですね。
そのなかでも、これで完璧と感じられる状態を追い求める過度なこだわりが疲弊の大きな原因になっている感じがする。完璧にできないことを許せない思いが、もっと頑張らなければならないという強迫観念を生み出し、仕事への依存ががんがんに強化される感じ。
過度に働くことは、肉体的、精神的な健康に深刻な影響を与えるというのはまさにその通りで、定期的に不眠症に悩まされるようになり、常に疲労していて、寝れないから酒を飲む、自炊ができないからジャンクフードで済ます。蟻地獄みたいに健康が蝕まれていくんですよね。
また、仕事に多くのエネルギーを注ぎ込むあまり、家族や友人との関係が徐々に希薄になり、趣味の時間を作ることもできなくなって、単に無感情の状態ではなく、もろもろの感情が「無い」状態になることで、自分自身が空っぽになってしまうみたいな感覚になるんですよね。
ふと息継ぎをしたときに、これらの状況に危機感を覚えるようになりました。もともと自覚はしていましたが、仕事をすれば、可能性を拡張できる感覚があってこの進化を実感し続けられる限り、もろもろの犠牲はやむなしかと考えてしまっていました。(むしろ、はじめはこの状況を楽しんでいました。)一方で、改めて自分は何のために生きているのかという根源的な問いが心に浮かぶようにもなりました。(なぜ、危機感を覚え、こう考えるようになったのか。でもそれはまた別の話題になる。)
となると、やはり、生きることの目的は当然死ぬことなのだから、(「わたしたちは一日一日と死んでいる」「立派に死ぬべきことを知らなければ、立派に生きることはできない」セネカ)そうした前提において、生という進行中のプロジェクトに対してどんな意味付けを行っていくかが、働きかたというか人生の時間の使い方を読み解くヒントになるのかな。(続く。)
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