仕事がうまくいかなかったあるころ。午前5時に就寝、翌朝8時30分に起床、5分で支度してオフィスまで全力ダッシュすることが日常になっていた時期があった。
当初はこんなこと続けていたら身体を壊すなあ、なんとかしないと…とか考えていたが、慣れとは恐ろしいもので、気づかない間にそれが当たり前になる。
仕事がうまくいかないというのにも、いろいろな種類がある。
一生懸命考えた企画が理解されずに無慈悲に突き返される歯痒さ。
これまでの戦術が通用せず、新たな勝ち筋を模索しても見つからず、そうして売上だけが日々失われていく逼迫感。
自分の特性とは真逆の課題に向き合わなければならないシンプルな心苦しさ。
重要度と緊急度の高い作業が山積みで終わりが見えないどころか、やればやるほど雪だるま式にやることが増えていく絶望感。
そんな困難が一挙に身に降りかかる。
そして、困難にも楽しめるものと楽しめないもの、といった種類がある。
楽しめる困難とは、自と他との関係がバランスを保っていて、現時点での限界を知りながらも、わからんけどまあいけるという確信を持って挑戦できるもの。
楽しめない困難とは、「存在と無」的な他者の目に映る自分を意識して本質から離れてしまっていたり、自分の能力自体に疑念を抱いていて、困難を挑戦として受け入れられず、ただ乗り越えるべき重荷として感じてしまうもの。
当時は、失敗の連続で自分自身を信じられなくなっていて、困難が逃げ場のない試練としてしか映らなかった。
ここで負けたくない一心だけでやっていたが、みるみる身体も心も荒み、もうボロボロの雑巾みたいだったなあ。
今となっては笑い話だが、正気を失った顔して喫煙所で俯く私を見ていた同僚は、死ぬのではないかとガチで心配していたらしい。
つに見かねた上司からドクターストップがかかり、少し内省する期間を設けてもらった。おかげで、最近やっと落ち着いてきた。
人間は、花に似ている。
日照りが続いて井戸が枯れれば、遠くの川にまで水を汲みにいく。
嵐が来る前には、枝が折れてしまわないように支柱に固定してあげる。
寒くなったら、室内に入れて枯れないように温めてあげる。
日照りも嵐も、寒さも、それ自体が絶対悪ではなく。
それらに向き合いながら、適切に環境を整えてあげる。
そうして春になると、きれいな花が咲く。
人間も同じで、時には自分を取り巻く環境に目を向け、その相互関係を観察することが重要になるのかもしれないが、この考え方は、原因を外部に求めているように見えるので、他責と捉えられるかもしれない。
逆に極端な自責は、状況が悪化したときに原因を無盲目的に自分に押し付けられる性質があって、まあ楽といえば楽でもある。
でもそれでは本質的な解決には繋がらず。
そうではなくて、大切なのは他責か自責かみたいな枠組みにスコープすることではなく、問題の真因を正しく定めることであり、
時には環境を整えることが最適解かもしれないし、自分自身のもろもろのアプローチを見直すことが必要な場合もある。
口酸っぱく言われるが、自分自身のことになると冷静に考えられなくなってしまう。
そういうときに大切になるのが、課題化されていない問題やもやもやを周囲の人がアクセスできる状態にしておくこと。
それに伴って、それを促進するためには、いろいろやり方があって、、、と、いろいろ大切なことを教えてもらったな。
どんな花も、適切な手入れと工夫次第で健やかに開花するように、人間もまた、どんな人であっても適切なアプローチができていれば本来の力を発揮できる。
そういうもんだと思います。
資本主義はクソで、会社員なんてもってのほかだと学生時代は考えていた。
その考え自体は正直変わっておらず、本質ベースで思想と行動を一致させられない情けなさを日々感じる一方、各論レベルで見ると、仕事というものは案外多くの気づきを与えてくれる場であるとも思う。
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