この世界にはたくさんのおもしろいものがありますよね。例えばアンパンマン。あれはものすごくおもしろいです。
まず、顔がパンというのが良い。食べられる。自分の顔をちぎって仲間に分け与えられるカリスマ性がアンパンマンにはある。アレクサンドロス大王のよう。しかしアレクサンドロス大王は熱病に侵されて死んだが、アンパンマンは決して死ぬことはない。
ピンチになれば、ジャムおじさんに顔を取り換えてもらうことができる。ジャムおじさんは焼きあがったパンを首めがけて放り投げる。くるくる回転しながら首にぴったりはまる。力を取り戻したアンパンマンはバイキンマンをやっつける。アンパンマンは、顔を取り換えながら延命し続ける。顔を変えたアンパンマンは変化し続ける存在でありながら、顔が変わったあともアンパンマンとしての一貫性を保ち続ける。一貫性はアンパンマンの精神だけではない。自分の顔を仲間にちぎりわけ、窮地に追い込まれるたびに顔を取り換えてもらう規則正しい日々を、アンパンマンは過ごす。
非常に画期的でおもしろいです。こんなものは誰が見てもおもしろい。強盗犯にナイフを突きつけられながら見てもおもしろい。春になってもおもしろい。秋になってもまだおもしろい。死んでからもおもしろい。しかし、ヴィムベンダースのパーフェクト・デイズはあまりおもしろくない。
ヴィム・ヴェンダースはドイツの映画監督。たくさんの映画を撮った。パーフェクト・デイズは彼の最新作に当たる。僕は個人的にヴィム・ヴェンダースの映画を愛しているが、この作品は初見時あまり好きになれなかった。というかはっきり言ってあまりおもしろくないと思った。
パーフェクト・デイズは、東京の公衆トイレの清掃員として働く男性の日常を描いた作品。主人公の平山(役所広司)は、淡々としたルーチンの中に静かな喜びを見出しながら生きている。朝早く起床し、歯を磨き、顔を洗い、缶コーヒーを片手に、オーティスやパティスミス、ヴァンモリソンを聞きながら、ダイハツのミニバンに乗って仕事へ向かう。彼のトイレ掃除に向き合う姿勢は非常に誠実で、動作には無駄がない。仕事が終わると銭湯へ行き、ビールを飲み、休日は、古本屋で本を買ってフィルムを現像し、コインランドリーへ洗濯物を出したあと、小料理屋で飯を食う。彼は社交的ではないが、完全に孤独なわけでもなく。職場の後輩・タカシ(柄本時生)は彼を慕い?、通いの飲み屋で顔見知りの人々と挨拶を交わすこともある。彼の世界は広くはないが、彼は彼なりに満ち足りた人生を過ごしている。
ここまで読んできてくれた方はどう思うだろうか。この映画、おもしろそうですか?つまらなさそうですか?そうです、なんかおもしろそうですよね?サントラは豪華で、東京を舞台にヴィムベンダースが取った静かで詩的な映画が、つまらないわけはないんですよ。そう思ってくれる人が大半であると、信じています。でもね、これが、なぜか全然おもしろくないんですよ。
そんなパーフェクト・デイズは世界的に高い評価を得ているらしい。映画のレビューサイトをみても称賛の嵐。パーフェクト・デイズが傑作と言われているのはなぜなのか?「日本の美的感覚を見事に捉えている」「静謐な時間の流れが心地よい」「整然とした静かな日常に憧れる」などと評されている。しかし、僕はこの映画を観ていて、そうした評価に違和感を覚えた。
この映画が平山のルーティンを描くことを主題としている以上、彼の棲家にある階段の昇降は、単なる移動ではなく、生活の秩序や精神の変化を象徴する重要な行為となるはず。階段は、彼の私的空間と公的空間をつなぐ通路であり、そこを上り下りすることは、彼にとっての境界の越境、すなわち精神的な移行を意味する。しかし、この映画は2日目以降、この階段の移動を省略してしまう。
この省略によって、彼の生活の場がどのように切り替わっていくのか、そのプロセスが曖昧になる。本来であれば、階段を上る動作は「平山が大切な私的空間へと戻る儀式」として、逆に下る動作は「孤独な男が社会と接点を持つための儀式」として描かれるべきだった。彼の精神状態や生活のリズムは、こうした移動の中にこそ刻まれるはずなのに、それが描かれない。階段という物理的な構造がもたらす身体的・精神的な変化を無視してしまった結果、点としてのルーティンの美しさみたいな表層的な部分ばかりが強調されて、公私間の移行みたいな線的な深みは失われてしまった。
それに、カメラとカセットテープみたいな懐古主義で構成されるアイテム。主人公の部屋もそう。一見するといかにもな文化住宅だが、中は広々としていて内装リノベっほい物件に平山は住んでいる。普段は銭湯や外食、コンビニ飯、フィルムにもお金を使えてしまう。清貧を装いながらも、どこかゆとりのある生活。レトロなものに囲まれた質素な暮らし、みたいな記号性の強調が、作為的で嘘にまみれていて、非常に気分が悪い。セリフにつけては、一度で十分伝わるメッセージがところどころで何度も繰り返されるいやらしさにうんざりする。これを名言として持ち帰ってくれと言わんばかりの押し付けがましさに、寒気がする。
この映画の持つ詩的で静かな雰囲気、映像美、そして選曲センスに魅了され、この映画を好きだって言う人がいることは理解できる。そういう意味で、それらの人々と感性の一部は共有できるし、表面的な部分では共感し合えるかもしれない。しかし、映画の核心にある精神性に目を向けたとき、それがあまりに陳腐で浅く、ただおしゃれ風に仕立てられたミニシアター映画の典型でしかないことに気づく。そこにあるのは、表層的な美しさや分かりやすいそれっぽさに依存した作り物の感傷。この映画の本質的な部分を理解せずに、それを無批判に肯定してしまう人々の態度には、決定的な断絶を感じる。ただ美しく、心地よくさえあればそれでよいと安易に受容する人々とは相容れない。だからこそ、この映画を好きだと言う人とは、表面的な会話はできても、深いところでは絶対に分かり合えない。つまり、友達にはなれても、仲良くなれない。
普段は、映画を見て、こんなに徹底的に批判することはない。そもそも嫌な予感のする映画は見ないようにしている。この映画も嫌な予感はしていたのだが、でも、映画好きで旅行中のイスラエル人から見た方がいいと念押され、仕方なく見ることにした。この映画を見てから1か月以上たつのだが、やっぱりこの映画は嫌いだ。嫌いなものがすべて詰まった映画だった。多分、この先も一生この映画の文句を述べることになるのだろう。人々が、嫌いな食べ物については殊熱心に語るように。
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