「ひとり」で山に登ることについては、前に書きましたが、今回はなぜ山に登るのかを整理してみようと思います。
結論として、私は魂の再生を目的に山に登っています。
いきなりスピリチュアルな話をしてしまった…が、もっとわかりやすく言えば、心を清めるために山に登っている、とも表現できます。
このことについて、少し詳しく説明してみます。
まず、私は自分自身を「汚い人間」だと思っています。汚さには2種類あると考えています。
一つは、身体細胞に由来する先天的な汚れです。
シンプルに、私は自分自身が嫌いで、身体を構成する細胞レベルで自分を憎んでいます。毎日、自分を汚らわしい生き物だなと考えながら、歯を磨いたりしています。
もう一つは、環境や文明が起因する後天的な汚れです。
都市は、人間の欲望や資本家の利益に基づいて形成されているものと捉えることができます。そんな環境で日々暮らしていると、心がどんどん荒んでくる感覚があります。
とにかく、先天的にも後天的にも汚れている感じです。
しかし、自然はどうか。
自然は、川のせせらぎ、鳥のさえずり、木々のささやきといった、人間の作為や欲望とは無関係な要素で成り立つ世界です。
さらに、山の場合はどうか。
登山という活動を通じて、自然との一体感を得ることができると考えています。
その説明のために、まず「主客未分の状態」について話したいと思います。
主客未分の状態とは、主体と客体が区別されていない状態を指します。もっというと、主体(自己)と客体(外界の事物や他者)の境界が曖昧になり、両者が一体となっているような感覚を得られる状態といえます。
これは、何かに夢中になっているときや、没頭しているときに経験できるものです。
例えば、バイオリニストが演奏に没頭しているとき、演者が楽器と一体化することで、超自然的で滑らかな演奏が生まれるらしいです。
登山でも同じように、活動に没頭することで、自然(バイオリニストでいうところのバイオリン)との一体感を強く感じることができます。
岩場を登るときは、手足の位置に神経を使う必要があり、急斜面を登るときは、歩幅や呼吸のリズムに意識を集中させて、完全にその動作に没頭することになり。
この没入の過程で、主客未分の状態に近づき、人間の作為や欲望から解放された自然との深い結びつきを体験することができるのです。
だから自然のなかにいるだけでは不十分で、自然下で没頭できる活動が伴わなければならず。
だからこそ登山なわけで、その登山は、自分の汚れを拭うことができる、心が清められる、魂の再生を目的とした活動になるのです。
だから、私は山に登っています。
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