この世界には、心をガツンと殴ってくるような、強烈なコンテンツがある。例えば、グランジ。あれは、とんでもなく効く。
第一に、音が最高にクールだ。それは、ツルツルに磨き上げられた、どこにも引っかかりのない音じゃない(もちろん、そういう音にも良さはあるけど、今はグランジの話)。歪んでいて、ザラザラで、ノイズまみれ。喉が潰れそうな叫びや、ボソボソとした独り言みたいな歌い方で、そういう剥き出しの音を耳に叩き込んでいると、ぐっと込み上げてくるものがある。
それは、この世界が抱える欺瞞に対する異議申し立てへの賛同、あるいは、そうした欺瞞の中で自己を見失わずに叫ぶ個の声へ共感する気持ちなのかもしれない。小手先のテクニックやスタイルなんかじゃなく、どうしようもない、曝け出さずにはいられないみたいな根源的な衝動こそが、グランジをグランジたらしめているような気がする。
音楽に心地よさを求めたい時もある。でも、グランジの魅力はそこじゃない。もっと深いところにある、生身の人間のどうしようもなさとか、それでも何かを渇望するような、そういう切実な心象を肉薄しようとしている。
で、なんで春とグランジなんだ、と。一見すれば、これほど相性の悪い組み合わせもないだろう、と。柔らかな日差し、生命の息吹あふれる春に対して、ダウナーで、ザラついてて、終焉や停滞の匂いがするグランジ。ピクニックに持っていくプレイリストには、まず入らないよね。
でも、春の美しさの本質って、光と影、生と死の気配が、分かち難く混ざり合っているところじゃないかと思うわけで。桜は確かに美しい。でも、それが心を打つのは、散ることを知っているからであり、あるいは足元を見れば、新緑の隣には、まだ朽ちずに残る枯れ草が目に映ったりする。
何が言いたいかって、つまり春とは、生が死の痕跡の上で輝きを見せ、同時に影の存在をも色濃く浮かび上がらせる、そんな季節なのかもしれないってこと。その両極の間で揺れ動くダイナミズムが春の美しさの源泉であり、単なる暖かさや華やかさだけでは語り尽くせない深遠な魅力の正体なんだと思う。
ただ明るくて、希望に満ちていて、穏やかなだけの春なんてたぶん嘘なんだ。少なくとも、僕が感じる春は、もっと混沌としていて、力強くて、そしてどこか切ないもの。だから、抉り出す痛みや怒りや虚無感でいっぱいで、目を背けたくなるようなグランジを思い出す。だから、春はグランジなんだよなあ。
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